ウクは死ぬの?史実から見るウクの存在『麗花萌ゆる8人の皇子たち』

ウク 死

韓国ドラマ 「麗花萌ゆる8人の皇子たち」のワン・ウクの最期はどうなるのかが気になりますね。皇帝争いの後にソに謀反の罪を着せられ幽閉されましたが、スと結ばれなかったウクは死ぬのでしょうか?

また史実のウクはどういう存在なのか、その最期も合わせてご紹介していきます。

ウクは死ぬの?

ウク 死
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ウクの最後は病死したとペガによって語られます。

ウクの屋敷に着いたペガが門を入ると庭に誰かいます。小さな女の子が木のそばに隠れてペガを覗き見しています。指を顔の前に立てて父上に見つかるから、シッと言いました。ペガは近づくとウク兄上の娘だなと言います。

私はそなたの叔父だと膝を折って少女の顔を見つめます。娘は「嘘つき、お前はただの楽師だ」と答えます。ペガが楽器を持っていたのでそう思ったのです。「本当なのに。お前の名前は?」とペガが聞くと彼女はポクスンと答えました。その名を聞いてペガはウヒが出会いの時ポクスンと名乗っていたことを思い出すのでした。

そこに幽閉されているウクが現れます。咳をして痩せてしまい力がなさそうに見えます。肺病にかかっているのです。「まだ身を固めず花を見て回っているのか」とウクが問えば「胸踊らない人生は退屈ですから」と答えるペガです。

ウクはため息をついて「陛下が貞観政要(じょうがんせいよう)を閉じ動き始めた。奴婢の身分回復、科挙の実施は豪族を抑えるためだ」と語ります。相変わらず皇宮にお詳しいというペガに、ただ見ているのだけだと力なく返すウクなのでした。

貞観政要とは唐の太宗の政治に関する言行を記録した書で、古来から帝王学の教科書とされた書物

ソがどんな皇帝になっていくのか、高麗は史上最も強い皇帝に出会ったようだと話すウク。

近頃あらゆる人を思い出すというウクに「相変わらずスが恋しいのですか?」と聞くペガ。小さく笑いどうかなと答えるウクはゆっくりと歩き出しました。

(私は誰かを愛することにしくじってばかりだった。やっとわかった。)ウクは咳をしながら歩きそして急に歩みを止めます。そして・・。

ウクがスを愛おしく見つめていた時妻のヘ氏が自分を見つめていた事を知るシーンが流れます。

ウク 死
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ウクはソ皇帝に死んだ鷹を献上したという罪を着せられ幽閉されていました。そこで、皇宮のことをずっと見ながらどのような思いで過ごしたのでしょう。今となっては肺病に侵されて、何が残ったのかと思ったときにヘ氏の変わらぬ深い愛に気づいたのではないでしょうか。

そしてペガが皇帝ソに「ウク兄上が逝きました」と告げました。ドラマの中では病死のようです。それでは史実はどうなのか見ていきましょう。

史実から見るウクの存在

ウクは父は太祖で母が神静王后皇甫氏の第8皇子です。第5皇子という説もあります。妻は宣義王后 柳氏(太祖と貞徳王后の娘)です。妹は光宗の妻・大穆王后 皇甫氏(ヨナ)です。子供は5人で男子が3人、女子が2人いました。

ウクは皇位継承の優先順位は高くありません。母の神静王后皇甫氏は第4王妃であり、豪族の出でした。ドラマのなかではファンボ氏として出てきました。

しかし、恵宗(ム皇帝)が即位2年で亡くなったため第3王妃と第4王妃の息子の間で即位争いが起こり第3王妃側が勝ちの息子定宗(ヨ)がつくのです。その4年後には定宗が死にますが光宗が皇帝につき旭(ウク)は完全に皇位継承からは外されます。

ウク自体は歴史のなかではあまり記録がありません。皇帝にならなかったのでそうなのかもしれませんね。しかし彼の子孫が皇帝になり血統を残したので、皇帝になりながらも血統を長く残せなかった光宗と対称的なのです。

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若くして亡くなったという説もありますが光宗が在位して20年は生きていました。ではウクはどのように亡くなったのでしょうか。

ウクの死因

ウクは969年になくなっています。病死か殺されたのかははっきりした最期の記録はないのです。

生年は不明ですが911年という説もありました。光宗(ソ)は925年から975年まで生きました。光宗の在位が949年 – 975年です。

光宗は様々な良い政策も行いましたが治世の後半に至って豪族や親族に対する排除は粛清といえるほどに厳しさを増し、中には罪なく殺された者も多かった、というのは有名な話です。なのでウクが亡くなった頃とも合致しているので粛清で殺されたという見方もあります

恵宗(ム皇帝)の息子も光宗が粛清したという史実の記録がありますのでウクも殺された可能性は大きいのかもしれません。

ウクの子どもたち

ドラマでは皇帝の座を望みながらも叶わなかったウクでした。しかし史実ではその子孫が皇帝の座に付きました。

ウクには3人の息子がいます。そのうちの2番目の息子が皇帝になりました。

長男孝徳太子・次男成宗・三男敬章太子

皇帝 在位 血縁関係
光宗 949-975
景宗 975-981 光宗(ソ)とヨナの息子
成宗 981-997 旭(ウク)の息子
穆宗 997-1009 景宗の長男であり母はウクの長女
顕宗 1009-1031 父は王郁(ペガ)母はウクの次女

皇帝の系図として光宗の後が息子の景宗で次が成宗となります。ウクの次男成宗が6代目の皇帝となるのです。

そして娘は二人います。長女も次女も光宗の息子の5代目の景宗皇帝の王妃となります。

長女:献哀王太后皇甫氏964年~1029年ドラマ千秋太后(せんしゅうたいごう)で知られる人物です。夫である景宗がなくなった後金致陽と出会い皇宮において絶大な権力をふるった女性です。金致陽との間には子ももうけ、その息子を皇帝につけようと画策し最後は流刑になりました。

次女:献貞王太后皇甫氏?~992年

献貞王太后は景宗が死んだあと、王輪寺南側にある私邸に出て行って暮らしていました。その時その近くに住んでいた王郁(ペガ)と共に過ごす時間が多くなり結局親密な関係となり献貞王后は王郁の子(顕宗)をもうけることになるのです。

この次女が30話に出てきたウクの屋敷の庭でペガと話した少女なのです。そうわかってみるとこのシーンを入れた意味がわかりますね!もうここで、出会って縁を結んでいたとしたらと考えるのは楽しいです。

史実ではその後姦通の罪でペガは流刑となります。しかしその生まれた子(顕宗)は成宗が養育し第8皇帝となるのです。

最終的には、8代以降最後の34代王までがペガの子孫となります。

麗花萌ゆる8人の皇子たち 史実 歴代
(https://happylyeo.net/wp-content/uploads/2020/11/家系図.pdf)

どうでしょう!ドラマのなかでヨナとウクが見せた皇帝への執念は本物だったようですね。粛清を行った光宗の血筋が途絶えたことに歴史の審判をみるような思いがしました。このドラマが歴史の事実を踏まえて良く構成されたフィクションであることを感じます。

史実のウクには5人も子供がいて、そのうち3人もが皇帝や皇帝の母となったというのはドラマとは違い素晴らしい結末だったのではないでしょうか。

ウクは死ぬの?史実から見るウクの存在『麗花萌ゆる8人の皇子たち』まとめ

ウクはドラマのなかでは幽閉されたのち病死しました。史実では、はっきりはしませんが光宗に粛清された可能性もありました。一番優しくて紳士的だったソの愛したウク。どの皇子も幸せになれなかった結末でしたが、史実のウクやペガの子孫が皇帝になったことで報われたような気になりました。

史実のウクは5人も子を残していますし妻を愛した一途な皇子だったと思いたいです。また史実に残るウクの娘たちは息子を皇帝にしたという点からドラマのヨナ似の信念のある女性だった気がします。

史実のウクの家系にも壮大なドラマが有りました。そんな事も知って見るとますます『麗花萌ゆる8人の皇子たち』が面白いですね!